イケニエの羊だって恋をする!? 〜暴君社長の愛玩OL

◆プロローグ−2 玉の輿は好きですか?

ことのおこりは一ヶ月前に遡る。

七崎雨音は柊エレクトニクスカンパニーに正社員として就職できてはりきっていた。
この会社はElectronics Companyの頭文字をとって、柊E・Cと略される。
正社員といっても三ヶ月は研修期間。
その間の働きを見て、正式雇用が決まる。

この不況時にせっかく掴んだチャンスをふいにするわけにはいかない。そう思って、わけがわからないながらも一所懸命働いていた。なんといっても勤め始めて一ヶ月なんて右も左もわからない。
しかも社屋のビルはぴっかぴかに新しいだけでなく、迷路のように複雑に入り組んで広い。
わからないことだらけだ。

柊E・Cという会社はエレクトニクスとつくだけあって、精密電子機器製造を主に扱っている。
けれども、ここ桜霞市にとっては単なる一会社というわけじゃない。
桜霞市は地方の中核都市なのだけれど、ある変わった特徴がある。

桜霞市の中心部に位置するいくつもの高層ビル、いくつもの工場、見渡すかぎりの街が、柊グループという財閥の企業で占められていたのだ。
街の収入はほぼ柊グループからで、残るいくつかも柊グループと関係のない会社も人もほぼいない。街の住民はみななんらかの形で柊グループの恩恵を受けている。
グループの創業者一族はみな“柊城”を姓にもつ。だから、

「柊城姓のひとと話すときは気をつけたほうがいいって」
とは高校でそういわれたらしい弟の凪人〔ナギト〕の言葉だ。

もちろん雨音だって最初はひどく気をつけていた。
初めての人と会うたびに、このひとは“柊城”一族と関わりがないかと慎重にも慎重を重ねて話していたのだけれど、その態度が異様だったらしい。
会社の先輩にして同じ歳の同僚になんでそんなにびくびくしているのかと呆れられてしまった。

同じ部署の佐々木はるか嬢は女子力には一家言あるらしいのに、妙にサバサバした性格だったから、これなら少なくとも馬鹿にされたりしないだろうと、おそるおそる理由を話したところ、

「柊城一族の人となんて、そんな簡単にどこででも会ったりしないわよ! もし会えるんなら私だって会いたいくらいだわ! だっていくら狙いたくっても個人的に会えなかったら、そのチャンスすらないんだもの!」
とえんえんと玉の輿願望を述べられるはめになった。

「ふたりきりで名前を覚えてもらえるチャンスがあるなら、絶対にモノにしてやるわ!」
(すごいですさすがです絶対真似できないです!)
はるかの意気込みを前に、雨音はパチパチと声援の拍手を送ることしかできなかった。
どちらにしても、雨音の希望としては玉の輿なんてとんでもない。

目立たないこと。
足を引っ張らないこと。
上の方の人に名前覚えられるような失態をしないこと。
平凡に地味に失敗なく直属の上司である課長程度にプラスの評価をもらうくらいでちょうどいい。

まずは、問題なく無事研修期間を終えて、平凡な正社員になること!
それが雨音の最大目標だった。
とはいえ、引っ越してきたばかりの慣れない地で、慣れない仕事をしているせいだろう。
すぐに頼まれたプレゼンテーションの資料を取引先に間違って送ってしまう失敗を犯してしまった。
慌てて電話口でペコペコと頭をさげて、急ぎ自分で届けに行く羽目になったのが夜の八時。

もうそろそろ退社しようと思っていた頃だったから、取引先で素早く間違いに気づいて電話してきてくれたのは、ある意味ありがたい。しかも今日中に届ければ明日のプレゼンテーションに間に合うという。

(自分の力で、どうにか失態を取り戻さなくては!)
雨音はそう決意して、課長に許可をもらって急ぎ飛びだしたのだ。
そうして無事、取引先へのお使いを終えて社に戻ってきたところ、夜の十時近いオフィスビルにはさすがにひと気がなくなっていた。

無人のビル。
大半の電気も消されて、廊下さえ薄暗いなかにひとり。

仕事を終えて帰ってきたはずなのに、あまりにもひとがいない会社の中を歩くと、うしろめたい心地にさせられるのはなぜなのだろう。なにか悪いことをするために居残っているようで、なんとなく咎められやしないかとびくびくしてしまう。

悪いことは決してしてませんよと心の中で呟きながら、きょろきょろと辺りをうかがいつつ自分の部署に戻ってくると、意外なことにそこにはまだ灯りがついていた。

「誰かまだ……仕事している?」
パーティションに区切られた区画のドアを開けると、視界に同僚の姿はない。
ぐるりと辺りを見渡せば、いちばん奥の上座の席にスーツ姿の人影がふたつ。
そのうちのひとつはおそらく課長の紀藤だろう。

なにやらパソコンをのぞきこんで、話をしているらしい。
雨音の帰社に気づいた様子はないけれど、声をかけないと言うのも多分おかしい。
そう思って、そっと近づいてみれば、どうやらオンラインサーバを持つ情報管理ソフト――ノートミドリに書きこみをしている。

「おかしいな……これであってるはずなんだけど……」
「って紀藤、これ、こっちのパソコンで開くと完全に文字化けしてるぞ。これじゃ全然意味がない……」

「最新バージョンは、日本語だとバグが出やすいんですよ。海外のサービスだから……ダウングレートしてみたらどうでしょう?」
部署のデータ管理の話をしているのかな? と思いつつ、ぼそりと呟きに反応を返してしまっていた。
ぱっと、いまさら気づいたように課長の紀藤と見知らぬスーツの青年が雨音を振り向いた。

「…………えーっと、ダウングレード……最新バージョンじゃなくて、ひとつ前のバージョンとか、ふたつ前とかに戻すと、文字化けとか改善することがあります……よ?」
と、もしや説明が不十分だったかと思い、つけたしてみたけれど、なにやら空気がおかしい。
特に、見知らぬ青年の反応が微妙だ。

「あ、えーと課長、ただいま戻りました……?」
沈黙にいたたまれずに帰社を告げると、「ああ、ご苦労だったな」といたわりの言葉が返ってきた。
いやみでも義務的でもない印象を受ける声に、雨音は少しだけほっとする。

紀藤は若くして課長職についているだけあって、仕事ができるらしい。端で見ていてもともかく仕事熱心だし、そのせいか残業もよくしているようだ。といっても、残業の基準なんて会社それぞれで、紀藤のそれはなんら珍しい量でもないかもしれない。そんなにいろんな会社の事情を知っているわけでもない雨音にはよくわからない。

実際、紀藤がこの部署――風力発電開発部にきてから、業績は伸びていると聞いた。なのにそれを鼻にかけずに部下の仕事にも理解があるから、女の子たちにはもちろん評判がいい。

もちろん、紀藤がもてるのは仕事のせいばかりじゃないだろう。
どう控えめにいたところで顔立ちは格好いい部類に入るし、背も高い。
繰り返す、背も高い。
一八六センチなんだって。
女子としては一七四センチとちょっと身長が高めの雨音と並んでも、見劣りしない。どころか、わざわざ背を丸めなくたって、いっしょに並んで女の子に見える。

背の高さは雨音の密かなコンプレックスだ。
学生の頃、少しいいなと思っていた男の子から「背の高い女は好きじゃない」といわれて、ひそかに泣いたことがあるくらい。

別に雨音だって好きで身長が伸びたわけじゃないのに。
そう思ってみても、言われた言葉はくびきのように深く心に打ちこまれて、どうにもできなかった。

そんなことがあったから、身長が高いというだけで、紀藤のことをいいなと思ってしまう。
ましてや、一流企業の若手出世頭。性格も悪くないし、顔もいい。身長以外のスペックだって十分すぎるくらいだ。

見知らぬ玉の輿よりも、目の前の出世頭!
とりたてて秋波を送ったわけではないけれど、紀藤と話すときにそんな考えが頭の片隅にあったのは否定できない。

けれども、見知らぬ社員――椅子に座っている紀藤の後ろで雨音を訝しげに見ている青年も、まっすぐに起き上がって立つと、すらりと背が高い。
目線の高さから判断すると、身長一八六センチの紀藤とほとんど身長は変わりがなさそうだ。

誰だろう。

雨音がまじまじと青年を見つめていると、心なし、青年の瞳が驚きに瞠られた気がした。



イケ恋・ムーンライトノベルズ/■/続く
公開日:2014年1月4日〜ムーンライトノベルズ初出/2014年9月16日サイト転載

(C) 2013 Aimori.Shizuku All rights reserved